走馬灯が見えて意識が朦朧としている中、男が胸元からセーターの中にある筒状の何かを出そうと手を緩ました。
その瞬間、「このまま死んでる場合じゃない!」という気持ちが急に湧いて、うつ伏せ体勢に体をねじってから立ち上がった。
男は慌ててまた掴みかかってくる。
もみ合いになっていたけれど、少し体の距離が空いたタイミングで相手の腹を蹴って吹っ飛ばした。
後ろに吹っ飛んだ隙に、立ち上がりながらまた男がセーターから筒状のなにかを取り出そうとする。
何を出そうとしているのか分からないが、おそらくは武器だろう。
急いでセーターに入れている手を掴んで抑えると、男は反対側の手で殴ろうとしてきた。
ど素人の大きく後ろに振りかぶる殴り方だったから軽くさばいて、また取っ組み合いに。
ここで気付いたけれど、相手は俺より少し身長が低くて体格も同じかやや細いくらいだ。
こっちは体がボロボロだけど勝てない相手ではなさそうだ。
今ならナイフを男の太ももに刺して逃げれるだろう。
でももしセーターの中身が銃だったら背を向けるのはリスクが高すぎる。
やるなら首を切るしかないのか。
今ならナイフもすぐ出せるし1秒もあれば首を切れる。
ただ万が一、ナイフを奪われたりすると今度は刺される可能性も出てくる。
ナイフを出した時点でどっちかが死ぬ可能性はかなり高くなる。
他に方法はないのか。
殴り合いをしながら考えて、ダメもとで「金は少しなら持っている」と言ってみるも相手はまた首を横に振るだけ。
少し隙を見せるとすぐにセーターの中の何かを取り出そうとする。
この距離だからもし銃ならそこまで問題ないけれど、鉈とかナイフだった場合は致命的だ。
男がそれを取り出さないように手を抑えたり、殴ったりして必死に阻止する。
まだ自分の中で覚悟は出来ていなかったけれど、もし男がセーターから何かしらの武器を出してしまったらその時は一瞬もためらわずにナイフで男の首を切ろうと決めた。
男は蹴りやパンチは全然ど素人だったけれど、モンゴル相撲が得意なのか、転ばすのがすごくうまい。
油断するとすぐにマウントを取られそうになるから、殴ってなるべく相撲状態にならないように持っていく。
途中でまた二回、「金ならやる」と言ってみたけれど無反応。
男が殴ろうとしてきたタイミングで、右手で思いっきり胸と脇腹に2発入れたらかなり効いたみたいで左手を掴む力が一気に弱くなった。
「いくら持ってるんだ?」
やっと男が口を開いた。
「いくら欲しい」と聞き返す。
「10万Tg」 (6500円相当)
ちょうど強盗に遭った時の為に持っていたダミー財布の中に10万Tgが入っている。
少し高い気はしたけれど命のやり取りをしなくていいなら安いだろう。
「わかった」と言って、相手が銃を出してもすぐ抑えられる距離まで近づいてから、相手から目を離さず、手探りでダミー財布の中から10万Tgを出して渡した。
男が手で「もう行け」というジェスチャーをしたから、お前が先に行けというジェスチャーをし返した。
銃を持っている可能性もあるから背中を見せるのは危険すぎる。
男は一度も振り返らずに森の奥にゆっくり歩いて消えていった。
姿が見えなくなってから、急いでジョナに跨って走って森を出た。
男が銃を持って仲間とバイクで追ってくるかもしれないから、なるべく見つかりにくいように草原と森の間のすぐに森に入れるギリギリの位置を走る。
しばらく進むとメインの大きな道に出た。
草原にある轍もしっかりしていて1時間に車が5台くらいは通るし、この道沿いなら安心だからペースを落とした。
落ち着いて状況や怪我を確認してみると、大した怪我はないけれどイヤホンは片方が千切れていて、服やジャンパーはビリビリに破れていた。
ゆっくり進みながら、あのまま殴って武器を奪えば良かったんじゃないかとか、あの距離なら相手の頭を掴んで頭突きを連発すれば簡単に安全に倒せたんじゃないかとか、そもそも旅の始めはもっと警戒していたのに良い人に会いすぎて油断しすぎてたとか色々と考えた。
なにはともあれ日本で1日働けばお釣りがくるほどのたった6500円という代償で、最悪の結末の殺すか殺されるかという事態が回避できたのだからまだマシな結果だろう。
しばらく進むと道沿いに店が見えてきた。
店に入っておばちゃんに山賊に会ったことをいうと、「よく無事だったね。あの辺りで行方不明になっている人は何人もいるんだよ。この先の森にも出るから近寄らないように気を付けて」と教えてくれた。
オレンジジュースを買って一気飲みをしても、まだ心拍が収まっていない感じがしている。
雷のかすかな音で窓の外を見るとすごい強い雨の雷雲が近付いてきていた。 雨雲自体はそこまで大きくないからすぐに通り過ぎるだろう。
ジョナとクロを屋根付きの場所に移動してからその店でご飯を食べることにした。
肉ご飯を注文して食べ終わっても、まだバケツをひっくり返したような雨が止んでいなかったからそのまま30分寝た。
思っていた通り、1時間かからずに雨が止んだから急いで出発。
しばらく進むとまた大き目の雨雲がきた。
今度の雨雲は雨が強くなさそうだし、そのままレインコートを着て進む。
雨は1時間半くらいであがり、そろそろ日も暮れてきたし寝床を探そうと思っていると、近くのゲルにいたお兄さんが馬に乗って近付いてきた。
話してみると、旅行者用の乗馬場をやっているとのこと。
クロのことも説明して状況を見てもらうと、「この足じゃ2ヵ月は乗れそうにないけど良い馬だから交換できると思う」とのことだった。
お父さんが今はいないから交換できるのか、交換用の馬はどれになりそうかは明日確認してくれるらしい。
一旦、そのお兄さんのゲルのすぐ隣にテントを張らせてもらった。
ゲルで肉うどんとお酒をご馳走になって、今日の出来事も話した。
「相手が一人だったのは不幸中の幸いだったな」と、お酒を飲みながらこの辺りのことを教えてくれた。
この先、山賊や強盗は更に増えるから夜の移動は絶対にやめたほうがいいとも言っていた。
「ゲルで寝なよ。」と誘ってくれたけれど、テントのほうが一晩馬を見続けられるからと言ってテントで寝ることにした。
この先、更に山賊が増えるなら今日みたいな目にもまた遭うのか。
さすがに何回もあんな目に遭うのはごめんだ。
もし相手が一人じゃなくて集団だったら絶対に死んでいただろう。
でもウランバートルまであと半分の所まで来ているし、ここまで苦労して来たから諦めたくない。
最大限に警戒すればなんとかなるだろうし、やれるところまでやってみよう。
色々と考えながら夜明けを待って寝た。